グラスツリーと壁画とストーリーが印象的な、ケアンズ近郊のアボリジニの聖地へ。

パンデミックの影響で旅の仕事がキャンセルになってから、久しく訪れていなかったアボリジニの聖地、しかも、私の家から1時間もかからない初めての場所に行ってきました。

「あの山に壁画がある。」と、運営中のショップを通して知り合った、ココナッツオイルの作り手Kaiziさんから聞いてはいたんです。

(彼はアイランダー(トレース峡の島)出身だけれど、地元のアボリジニの人たちともブラザーと呼び合い、大地を守る在り方を貫いています。)

そんな会話を忘れていた先日、大好きな渓谷に行こうと車を走らせていたときに、ふと看板が目に入って、「あ、ここだったんだ」と。

 

オフロードの道沿いは、いかにもオーストラリアな乾いた大地と蟻塚、そしてユーカリ林が縁取り。。ところどころオアシスのように緑や清流が姿を表します。

乾燥地帯と湿潤地帯が出会う、不思議な雰囲気の道のりでした。

ちょうど数日前に、体内と意識のエネルギーのコンピューター測定をしてもらったら、私の課題の1つは「境界線」だと出たんですね。

融合って響きは良いけど、異質なものが混ざり合うってどういうことなんだろう?って、確かに考えてきたテーマでした。

私は、境界線を創りたくないんです。

前から「何でも受け入れすぎ」と言われてきて、よく言えばオープン、悪く言えば無防備。

個人主義のオーストラリアで25年以上スモールビジネスを営む中で鍛えられたので、NOは言えます。特に大切なものを守ったり譲らないためには。

でも、ポリシーがないものに関しては、来るもの拒まず、去るもの追わず。

そのお陰で利用されていると感じて傷ついたこともあり、どうしたら良いか分からなくて、扉を締めてしまった時期もありました。

境界線を引かず、融合したら自分も相手もなくなっちゃうのかな。同じ価値観でない人に侵入されて個性を塗り替えられるのは悲劇だな。(現在の世界状況を見ても)

境界線って何だろう。。?

 

 

その答えが、乾いた風に乗ってもたらされました。

なくなることも分断されることもない。

自分が気高くあれば。

 

そう。利用されたと被害者ぶっていたのは、自分に対する誇り、自分を信じる気持ちが低いときだったかもしれない。

開いても良い。でも明け渡したら負け。威張るのも、なめられるのも、プライドが高すぎて他者をはじくのも、くっつき過ぎもNG。。全てはバランスなんだ。

(連合、協会etc.目的を同じくする集まりが、どうしたらお互い心地よく続くのか。もしくは、そもそも必要なのか。答は太古から続いている自然の姿にありそうです。)

そして、わかったんです。

必要なのは、境界線じゃなくて「結界」なのだと。

自分の「心の聖地」を大切にする。

それが、自分と相手をリスペクトでつなげ、また侵害されない結界になる。

 

この樹がまるで鳥居のような、聖なる空間への入口に思えて、思わず礼をしてくぐりました。

 

聖地に話を戻しましょう。

車を降り立った瞬間に気持ちを取られたのは、澄み渡った鳥のさえずりです。

乾いた空気の中に吸い込まれることなく、くっきりとした輪郭を感じる響き。

(メンバーさんは動画をご覧くださいね。)

気持ちよく整備された道(とは言え、砂埃が舞う)を進んでいくと、見たこともないぐらい、グラスツリーが群生していました。

 

グラスツリー(通称ブラックボーイ)は、山火事があると樹脂を出して葉っぱの基部を固め、強固な幹を形成しながら、その先から葉を再生します。幹がところどころ黒いのは、山火事にあったからなのですね。

その逞しさからか、智慧からか。。1本1本が人のようでもあり、守神のようでもあり。

見守られているような気持ちで、厳かに歩を進めました。

 

600〜800年も生きるとも言われるグラスツリー。多くのことを見守ってきた長老のような風格です。1年で1−2cmしか生長しないというから、この樹はいったいいくつ?

 

しばらくして、最初の壁画に到着。

ここは、Buluwandji族の女性が、代々出産をしてきた場所です。

現代風に言えば病院の分娩室みたいな感じでしょうか。

小高い丘の、よい塩梅に迫り出した岩が、新たな命が誕生するのにふさわしい。

1916年に開拓者たちが彼らを規程のエリアに強制的に移すまで、部族の人々はここにいたというから、それほど遠い昔のことではありません。

小さく、フェイドされかかった壁画ではありますが、新生児が描かれていてリアルでした。

 

地元ジェームスクック大学の研究だと、最低でも3500年前(ピラミッドと同じころ)から描き足されてきたものだそうです。

なぜ、ここが出産の場所に選ばれたのか。

Buluwandji族にこんな言い伝えがあります。

ある姉妹が、キャソワリ(火食鳥)を見かけ、仕留めるために火を放ったところ、狩で疲れて休んでいた青年を犠牲にしてしまった。青年はこの岩で姉妹に看取られ、姉妹は罪滅ぼしに、ここで新たな命を誕生させ、その慣しが長い長い間続いている。

狩をすること、火を扱うことは男性に限られるのが掟(おきて)でした。

姉妹はそれを破り、大切なものを失ってしまったのです。

 

 

私たちは、アボリジニの人々の伝説のことをDreamtime Storyと呼びますが、前にアボリジニの方と話していた時に、「ドリームなんかじゃないよ。あれは白人がつけた名称だ。俺たちの言葉では「おきて」と言った意味合いで呼んでいる。」と聞いて、ハッとしました。

生きてるんです。ストーリーは。

寝てる間にみる夢(ドリーム)なんかじゃない。目覚めた状態で、自分のルーツを五感で受け継ぐ。

遠い昔に起きたことが、まるで昨日のことのようにリアルに語り継がれ、彼らは、生き方を学ぶのです。

(日本人の私たちも、古事記を蘇らせるべきだと思う。)

 

 

私がBuluwandji族の言い伝えを知った時に考えさせられたのは、男性と女性の役割の違いでした。

男性はリスクを負いながらも狩に出て人々を養い、女性は家周りで働き、命を生み育む。これが大昔から続いた姿ですよね。

私も家の外の仕事をしてますし、子育てをお父さんがするケースもある。形式のことを言ってるのではなく、男性は能動的に獲得して与え、女性は受け取り、生み出すという特質の話です。

それを生かして働くのが自然だし、男女平等なんて主張する必要はないのではないかな。身体のつくりも立ってる場所も違うのだから。

どちらもいるから世界は成り立っていて、それぞれが与えられた勤めをまっとうしてこそ、より建設的でサステイナブルな世の中になる。

大事なのは、お互いに尊敬と感謝をもって、協働することじゃないでしょうか。

 

真ん中に描かれているのが、命を落とした青年です。命の循環についてもテーマになっているかもしれません。

 

一つめの壁画から更に丘を登ってゆくと、背の高いユーカリが途切れ、ソテツとグラスツリーが太古の空気をまとう存在感を持って迎えてくれました。

遠くには、キュランダの熱帯雨林。

本当にタイムスリップしたような感覚になります。

 

次の壁画はすぐ頭上。

ここにはホワイトカンガルーなどが描かれていました。

食べ物を集め、火を囲み、寝る。来る日も来る日も。そよぐ風や、日差しの角度や、甘い花の香りで季節をはかったことでしょう。

自然、そして人と共存する智慧が詰まったおきての中で、命をつないできてくれた人々のかすかな息吹を感じながら、一生の短さと重みを同時に感じました。

 

自分の中のテーマ「境界線」が浮き彫りになった数日後に、答えを授けてくれた聖地。

人は、必要な時に、必要な場所に導かれるようになっているのかもしれません。

特に、人間が生きた証がある壁画がある場所は、私にとってはいつも示唆に満ちています。

受け取らせてもらった 形ないものを、何らかの形で世の中に還元できたらいいな、と思っています。

 

アボリジニの聖地・教え

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