追悼 松本空手道場 松本一計師範

  2018/10/04  スローライフ日記

涙があふれて止まらない。

ケアンズで、40年以上に渡って空手道場を主宰してこられた、偉大なる松本一計(かずえ)師範が帰天されました。

 

 

私が初めてお会いしたのは、もう23年も前のこと。あと半年で、その時の先生の年齢になります。足下にも及びませんね。

リビングインケアンズというケアンズを情報誌を立ち上げたとき、エッセーの寄稿をお願いしに伺ったお宅。鎧兜が飾ってあり、日本のようでした。

どんな趣旨で雑誌を始めるのかを聞かれ、日本人の方にケアンズを楽しんでいただきたいとお答えをすると「なら協力する」とおっしゃって、広告スペースまで買ってくださった。

短い言葉の中に、私の中の覚悟も新たになり、身が引き締まる思いでした。

多くの生徒さんを抱え、先生を慕って訪ねる人もたくさんいてご多忙の中、無償で毎月(当時は月刊でした)記事を寄稿することに、先生ご自身も覚悟してくださったのでしょう。

(実際、先生の原稿は手書きで、原稿用紙に綴られたもので、書く作業は大変なものだったと思います。政治、歴史、とにかく博識でいらした。知らない漢字も多く、辞書をひきながらタイプしていた記憶があります。校正のファクスには毎回たくさんの赤字が入れられました。)

 

2010年、先生のエッセー100回目を記念した特集を組みました。

 

1995年創刊後半年もせず、一緒に始めた人と決別せざるを得ない事態になり、私はビジネスを買い取りました。オーストラリアに住み始めてまだ2年の、20代の後半。

1人ぼっちで雑誌を続けたときの風当たりは相当に強かったです。

「あんたみたいな世間知らずに何ができるのか」「色々聞きましたよ」。。そんな言葉を浴びる日々でした。営業も執筆もデザインも配達も外部との交渉も全部1人。

消えてなくなりたいくらい心はヘビーでした。その時に、取材で訪れた道場で、先生がこうおっしゃった。

「俺、あんたのことよく知らねえけどよ、若いのにそんな顔してちゃだめだ。体を動かすといいぞ。良かったら道場来るか?」

空手にはまったく興味がなかったけれど、私はそれからお稽古に通うようになり、先生がおっしゃった通り、汗を流すうちに少しづつ悲劇のヒロインから抜出て、やるべきことに淡々と集中できるようになったのでした。

 

1987年の終わり、1000人を超える道場生が入門したという記事が。

 

後にそのお話と感謝を伝えると「へえ、そんなことあったかえ?」とおっしゃってましたが。

そういう方なのです。

相手が誰であろうと真っすぐに接して、とてつもなく温かい。その熱が、頑(かたくな)なものを溶かす。

「お前もがんばってるのう」とポンと肩に手を置いてくださると、本当に安心できて、活力がわいた。

 

子どもが生まれたとき、自宅を訪ねてくださったり、今日は具合が良くなくてと電話で言うと、秘蔵の薬を持って駆けつけてくださったり、ケアンズを作ってきた地元の名士の方々との取材を取り持ってくださったり、私の父のガンが見つかった時、頻繁に電話で励ましてくださったり。

困っている人を放っておかない。義を非常に重んじる方でした。

 

 

道場で稽古中に、入口に立つ人がいると、先生は「おー、もしかして◯○か?20年ぶりだな!」などとさらっとおっしゃる。当時小学生だった人でも、すっかり名前を覚えていらして温かく迎えていた姿が印象的です。

一体、何万人の人が、あの道場の門をくぐったのでしょうか。

先生は、小さな子どもからシニアまで、全力で人と関わり合っていらした。

我が子でもない生徒に、あれだけ真っ正面から向き合い、真剣に叱れる大人がどれだけいるでしょうか。

礼節、人間としての在り方を、時に厳しさをもって全身全霊で、稽古を通じてお伝えになられた。

 

 

 

先生の動きは、まるで魔法のようで、目にも止まらない速さ。最小限の動きで完璧に攻撃を交わし、相手を引込んでしまう。黒帯の方でもまったく歯が立ちませんでした。しなやかな強さは圧倒的で無駄がなく、美しかった。

「逃げるな。向き合え。相手の懐に飛び込め」。私は、先生のお稽古から、生き方を学びました。

己と真っすぐに向き合う真の強さを。

 

戦争についてのエッセーを寄稿してくださった時は、「俺は自分の名前と顔入りで意見を述べるから何を言われてもいい。でもお前に迷惑かけるわけにはいかねえ。不適切な表現があったら言ってくれ」

そんな気遣いもしてくださる方でした。何かあれば、発行人の私が責任を取るので大丈夫です、とそのまま掲載しましたが。

正々堂々。全ての行動と信念と言動が一致している方だった。

 

 

あるとき、道場で人に関わる大事件がありました。

「恵子、俺は裏切る方じゃなくて裏切られる方がいい。枕を高くして寝てえからよ」とおっしゃった。

お天道様に恥じない生き方を貫いた方だった。

 

お忙しいですか?と聞くと「おお。相変わらず金になんないことばっかりやってるよ。わはは」と笑っていらした。

先生が一言言うと、誰もが喜んで支援する。多くの人が先生から恩を受け取っていたから。。いつも先生の周りには大きく温かい和があった。

 

「ここで教えてる空手は、正統じゃない。豪州人は手足が長いからな。豪に入らば豪に従え、だ」

古き善きものを尊びながら、進化を恐れない方でした。

 

道場設立25年目。スポーツ大国の形成に尽くしたことが認められ、連邦政府から、オーストラリアン・スポーツメダル賞を受賞!左から当時のケビン・バーンケアンズ市長、松本ご夫妻、ウォレン・エンチ連邦議員

 

 

先生は、どれだけ、地域に貢献されたでしょうか。

その大きな器で、どれだけの人を受け入れ、勇気を与えてくださったでしょうか。

どれだけの人々の心に、誠 を刻んでくださったでしょうか。

 

お茶目で、しょっちゅう冗談を言っていた。アウトバックと赤ワインが大好きでしたよね。

数ヶ月前、私の店で少しお話して「じゃあな、恵子」。と言われたのが最後でした。

 

 

糸東流に3万人のメンバーがいるというネパールを訪れたときは、熱烈な歓迎を受けたそうです。写真は、道中で寄ったインドにて。

 

元豪州空軍幕僚長が、日本刀で草刈りをしているのを見てショックを受けたことがきっかけで、ご遺族のために、豪州に眠っている日本刀や戦時中の遺品を収集し始めた先生。丁寧に日本刀に粉を打って、手入れされていた姿を思い出します。

リビングインケアンズの「遺品が語る日本」というコラムは、そんな先生のコレクションを見せていただいた際に、私達の知らない日本の歴史を教えてください、とお願いして始まりました。

 

子どもの頃、体が弱くて空手を始められたこと。豪州に発つ日にお父様が亡くなられ、ご兄弟の教育費は先生が送っていたこと。木曜島という新天地で真珠養殖の会社を立ち上げたこと。ケアンズに住むことを決めてから、道場の場所探しに奔走されたこと。当時の市長や在住日本人ケイ・フィッシャーさんなどの支援者がついて、道場を立ち上げ、軌道に乗せていかれたこと。

 

もっともっと色々なお話を伺いたかった。

 

2010年8月が、一緒に写真を撮らせていただいた最後でした。

 

豪州で生き切った最後のサムライ。地元の人々から絶大な信頼と尊敬を受けた日本人の誇り。

1つの時代が終わってしまったような寂しさ、先生の言葉、されてきたこと。全てが胸に広がり涙が止まらない。

「なんだ、いつまでもそんな顔して。久しぶりに道場に来るか?」そんな声を聞けることはもうないのですね。

先生にいただいた大切なものを胸に、歩んでいきます。

言葉にならない感謝とともに。

先生、どうぞ安らかにお眠りください。

 

 

スローライフ日記

Related Posts

[insta-gallery id="1"]