本当の意味で出逢うとき、人は。
2019/02/10 スローライフ日記
久しぶりの青空が出ているケアンズです。
昨日は義母のお誕生日を祝うため、高原まで行ってきました。
視力がとても低いので、杖を使ってゆっくり歩く姿。
店員さんに必ず「コーヒー美味しかったわ」など声をかける姿。
小さなお出かけ前でも、シャネルの5番をまとう姿。
誕生日のお祝い電話やカードを大切に扱う姿。
年齢的に、あと何回お誕生日を祝えるのか分からないと思うと、1つ1つを目に焼き付けたくなるのでした。
男の子を3人育てたお義母さんは、娘が欲しかったようです。他の息子はケアンズにいないので、嫁としては私が一番近しい存在なんだけど、この25年強、外人で年代も違うので、お互い驚きの連続でした。
私の息子は、ご主人を早くに亡くしたお義母さんが失意の底から少しづつ立ち直っていたころに誕生しました。
授かったのは起業の翌年、頑張ろうと決意したころで、正直なところ嬉しいというより、これからどうする?っていうタイミング。
頭が真っ白になってドライブに出て、報告に行ったとき、飛び上がるように喜んでくれたお義母さんを見て、「ああいいことなんだ」と思ったのを覚えています。
出産前の買い物も、どれだけお世話になったか分かりません。
生まれた後は、本当に、眼に入れても痛くないくらい可愛がってくれました。
夕方迎えに行く度に「今日はこんなことが出来るようになった。食べられるようになった。こんなおもちゃで遊べる段階だと思うから買ってあげてもいいかしら」
そんな報告を聞いて、赤ちゃんってこういう風に育てるんだな、と学ばせてもらって。
すごくゆったり、慈しみながら接しているのに、昼寝の間に服を作ってしまったりお菓子を焼いてくれたり。家はきちんと掃除されていて、スーパーレディに見えました。
娘が生まれてからは、毎日保育園は可哀想だと言うので、2人揃って預けた日も多かったです。
当時は「なぜあなたは、子どもが小さくて可愛い時期に、そんなに働くの」と何度も言われて、とても苦しくて。
子どもを預けて働くのは、そんなに悪いことなんだろうか。という葛藤の中で仕事をしてました。
当時は、人に迷惑をかけてはいけない、期待に応えなければ、という想いが強い一方、やりたいこともたくさんあって、家に収まるタイプでもない自分をどう扱っていいか分かりませんでした。
もう本当に辛くて、3〜4歳くらいだった息子に、外で仕事をしてもいいものかと聞いたら「ママ、ハッピー?」という答が返ってきて、やっとふっきれたんですね。
子どもは、親がハッピーなのを求めてるし、私は、自分が生んだ子どもの1人だと思って仕事を育ててる。それでいいじゃん、と。
でも今振り返ると、お義母さんは「時は戻らないから子育てを堪能しないともったいない、子ども達ももっとお母さんといたいと思うよ」という意味で私に何度も、何でそんなに働くの?と言っていのだと思います。
彼女自身、子育てをおろそかにしないために、夜勤の仕事をして家計を支えたような人だから。
私は一緒にいる時間の長さより質を取ろうと思い、休日は色々な所へ行ったり、濃い時間を過ごそうという気持ちでやってきました。
専業主婦になれない自分を認めた私は、その後もお義母さんにとっては理解しづらいであろう行動を繰り返し、会話がぎこちなくなったり、距離が開いてしまった時もありました。
責められるようで、正直避けていたこともあります。
今週、娘がシドニー大学入学のためケアンズを旅立つので、昨日はおばあちゃんとしばしのお別れの時でした。
「ねえ恵子、本当に活発な子だったわね。お兄ちゃんと一緒に面倒見てたのが昨日のことみたい」とドレッサーの上に飾られている小さな頃の写真を見て言う。
娘が早起きして焼いた誕生ケーキを食べていた私は、楽しくクッキングできるようにと、子ども用のボウルや小道具を揃えてくれたのはお義母さんだったなあと思い出しました。
帰り際、「行ってほしくないわ。」と言いながら、
「あなたでいてくれて有難う。人生を謳歌するのよ。今日は最高の誕生日だった」と娘のおでこに何度もキスしました。
自分の今までの曇ったフィルターへの後悔やら、お義母さんの愛の深さやら、様々な感情がわきあがり、わだかまりが溶けていく。
影で支えてくれる存在があったからこそ、私もこころおきなく働けた。
成長の節目の度に、考え抜かれた素敵なギフトと共に、心から祝ってくれてくれる彼女がいたからこそ、子どもたちは安心して巣立っていける人間に育った。
。。もう、心の底から感謝しかありません。
言葉や行いの後ろにある「光」を感じる自分になれたとき、
すべては「ごめんなさい」と「有難う」になるのですね。
20年と少しの歳月を経て、初めてお義母さんと本当の意味で出逢えた気がしました。