アボリジニの人々とイニシエーションと壁画

人生って面白いなと思うのが、忘れていても「時が来ると」再び現れるものがあること。

私の場合は、オーストラリアの先住民アボリジニの文化です。

大学生の時シドニーの美術館で見たアボリジナルアートに衝撃を受け、彼らの文化を学びたいとオーストラリアにある大学に手紙を出して(当時インターネットもEメールもなかった)、資料を送ってもらいました。

文化人類学を専攻したのち大学の教授になった叔母に相談すると「学んだところで将来どうなるか見えない。これ以上親に金銭的な負担をかけるのはいかがなものか」という答え。その通りだなと思いました。

どうしたら良いか分からず、とりあえず本物の壁画を見ようと卒業後オーストラリアへ。それほど強烈に惹かれていた。

その時歩いた丘に、30年後の今、私はいます。

土星が太陽の周りを1周するだけの年月、夢中で仕事と子育てをして、学んでどうなる?の答えを求める必要がなくなったこのタイミングで。

純粋にアボリジニの文化をシェアする案内人になれました。
(お店の運営やら他の仕事もしているので専業ではないけれど)。

広告も出さずひっそり行っているこのトリップは、ブログを見てわざわざ問い合わせてくださるご縁が深い方とだけ行けるようになっているようです。

ただご案内するだけでなく、深いところで同じエネルギーにつながり、言葉にならない何かを分かち合えることが嬉しい。

 

放飼の牛が公道に出ないよう、途中で車を降りてゲートを開け閉め。靴が砂埃で赤くなりました。

 

今回訪れたのは、初めての壁画でした。

(ケアンズから300km強北西にあるローラの近辺には大小合わせて1万箇所以上の壁画が残っていると言われています。)

ローラの村から、さらに1時間強オフロードを走ったでしょうか。四駆をかって連れて行ってくれたのは、アボリジニガイドのスティーブ。

変哲のない草原で車を止め、「なんでこんな所で降りるの?と思っただろう」と悪戯っ子のように微笑む彼の後ろを歩くと、シェルターのようになっている岩場がありました。

「このエリアは少年が大人になるイニシエーション(通過儀礼)を行ってきた場所だ。」

見ると、岩肌に、儀式を受けたのであろう男の子たちの手形や、彼らが属する部族のトーテムの絵が描かれています。

 

左下に描かれたディンゴーとポッサムの絵から、それぞれをトーテムとする2部族の少年がここでイニシエーションを行っていたことがわかります。

 

日本でも元服という形で、大人になるセレモニーが行われてきました。

武士や貴族の場合は新たな名前(諱・いみな)をもらい、「志」をたて 、どのように生きるかを誓ったのです。

元=頭、服=着用を指し、 頭に冠をつけるという意味

(生命の樹の一番上のスフィア・ケテルの意味が 「王冠」「目的/貢献意識」であることとも 繋がっていて興味深いです。)

依存的な奴隷意識から、自分が自分の人生の創造主になって、社会に対する貢献意識を持って生きるという決意の象徴のようにも感じます。

昔の人々は、肉体がただ大人になるのに任せるのでなく、「心も身体も生まれ変わる」節目を重んじたのですね。

アボリジニの人々はイニシエーションのあと一人前として扱われ、部族の行事や狩などに参加することができました。

 

これから割礼など一連の儀を受ける少年たちが控えていた場所。左に見えるのはクインカンと呼ばれるスピリットです。よく見ると、年代ごとに何層にも絵が重なっているのがわかります。

 

イニシエーションの内容は部族によって違いますが、このエリアでは大人になった証として、胸元などを尖った石で切り、灰を塗って傷を盛り上げたそうです。

実際に、割礼や胸元をカットするために少年を寝かせた平たい岩も残っていました。

どんなに怖かったろうと推測するのですが、不思議とこの場は温かく。

少年がこちらに走ってくる模様も描かれています。「楽しみにしているようにも見えるよね」とスティーブ。

彼らがどんな気持ちだったのか。想像するより他ありませんが、大人になることが憧れだったのだとしたら、なんと素敵なことでしょう。

 

 

いつまでも子どもでいたい人が多い社会はフワフワして刹那的。

貢献意識と自立心を持つ大人が多い社会は、芯が通っていてサステイナブル(持続可能)です。

ヨーロッパや他国から人々がやってきた200年前まで、数万年もの間変わらず続いたアボリジニの人々の在り方がそれを証明している。

お金儲けの競争も生存競争もなく、既に平和な社会に生きていた彼らにとって、貢献する先はダイレクトに地球だったのではないでしょうか

彼らは自分たちを生かしてくれている大地を、敬意を持ってカントリーと呼びます。

動物や植物と違って、考える力と動ける肢体を持った「人間」として、カントリーに何ができるかということにとことん真摯でした。

 

上の壁画の右に写っている穴は、最初の壁画の場所と繋がっていて(先に見える光が出口)、少年たちはここを通り抜ける必要がありました。まるで産道を通って生まれ変わることのメタファー。

 

連綿と続く在り方は、とてもシンプルで、でもとても深い。

複雑すぎる社会に生きる私は、ここに立っていると原点に回帰するような気持ちになります。

原点は、自分の原点でもあり、人としての原点でもあり、始まりのエネルギーでもあり。

ただ戻るだけでいい。元ある場所へ。

何もない草原と岩場が、そう語りかけます。

 

イニシエーションを終えた子が看病する人たちと共に数週間過ごしたという岩場。回復した後、川の近くで祝福のセレモニーが行われたそう。

 

今回ご一緒したのは、京都で何代も続く家業を継がれていて、聞けば誰もが知るような文化財に多く携わっていらっしゃる方。

「次世代に受け継ぐ」というテーマが壁画と交錯します。

 

自分の命をどこに向けて使っていくのか。

使命の先に見える理想の世界が私たちを突き動かす。

 

イニシエーションの儀式は、その世界をビジュアル化するものだったのかもしれません。

魂から溢れる行動は周りを動かし、肉体がなくなっても、「型」や「見えるもの」「ストーリー」などを通して魂は受け継がれる。

壁画は、1人1人の原点や始まりの意識と、時空を超えてつながる術の一つなのだと思いました。

 

 

今、私たちは大切にすべきものを受け継ぎながら、

新しいものを創り出す時代に生きています。

 

アボリジニの聖地・教え

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