ケアンズという小さな町の小さなお店、パウチの物語〜誕生以前。

このところ、お店のコンセプトや方向性・ウェブサイトを見直しています。

同時に、長らくお店で扱わせていただいていたアクセサリーや雑貨の作家さんたちが、商品を引き上げると連絡してこられました。理由は、日本に帰国する、転職してケアンズにいる時間が減ったなど。

寂しいけれど、時の流れと共にそれぞれ状況が変わるので仕方ありません。

驚いたのは、パウチの商品セレクトの基準を「命、伝統、地球を大切にするモノ」と心の中で思い描いたと同時に、次々と連絡が来たことです。

新しい流れが来ているのを感じている今、お店について何回かに分けて書いてみようと思いました。

自分にとっての「魂が喜ぶ Work Style」を考え直す機会になるし、もしかしたら、これから何か(店でなくても)を始めようと考えている方のお役に立つかもしれません。

 

 

生命の樹Self Discoveryセッションを受けてくださるのはお仕事をしている女性が大半ですが、有り難いことに「恵子さんの”想いを形にする”パワーに触れたい」と言うお声もいただいています。

自分では意識してなかったけど、確かに、見えない価値に光を当てて「見える形にする」のが好きです。

雑誌を作っていたときは、人や場所やモノなどの持つ価値を、取材して写真に撮って、記事にしてきました。

お店は、雑誌という平面が立体になっただけで、お客様や作り手さんとの交流という新たなディメンションが生まれる媒体。

旅の仕事は、ケアンズという土地が持つ見えない唯一無二のエネルギー「太古から続く根源のパワー」を体感していただくため、

個人セッションは、お1人お1人が生まれ持った素晴らしい価値を、「生命の樹」という神秘図形を通して「観て、感じて」いただくためのコンテンツです。

 

 

素晴らしい素材を集めて編んで、可視化して、受け取った方がご自分なりの気づきを得られる媒体(場)を創る努力をする。

私は、小学校の卒業文集で書いた将来の夢「編集者」を、ずっとやってきているのだと気づいたのは最近のことでした。

一見バラバラなことをしているようでも、人は心の奥に「大切にしたい在り方」を持っていて、それが吸引力そして行動の源となって物事が成されていくのですね。

 

ミュージシャンが、ロックな曲を歌ってもバラードを歌ってもその「人」らしさが消えないのと同じで、私たちの仕事も、何をするかよりも「自分が何者か」を知って表現することが大切なのではないでしょうか。

「あなたの曲を聴きたい」と言ってくれるオーディエンスがいるからこそ輝ける。

自分が好きで表現したものであっても、受け取っていただける相手の存在を意識してはじめて、仕事と呼べるものになります。

 

 

ほぼ衝動的にパウチという店を始めたのは、2012年4月でした。

2011年は激動の年で、2月にケアンズを襲った空前のサイクロンに続き(スタッフさんは洪水を避けてホテルに非難、オフィスのコンピューターや貴重品も全て持ち帰る大騒動でした)、3月の東日本大震災。

 

でも何よりも、父が余命宣告を受けたことが私の心を壊しました。父は、組織に属すことを嫌い、1つのことをクリアすると次の挑戦を始める。安定にあぐらをかかない強烈なキャラクターでした。遊具メーカーを経営していましたが、クリエイター気質の人だった。

 

「やる前から無理だと思うな」「人生を人任せにするな。自分で考えて自分で切り拓け」といった彼の言葉や在り方に影響を受けて、今の私がいます。仕事を始めたとき「経営者は孤独だよ」と静かに言い、教訓めいたメモをくれたこともありました。

 

親御さんを亡くされた方は、誰もが通る道だと思いますが、こうした状況になって初めて、いかに心の中で大きな存在だったのかを知るのですよね。

 

手掛けた最後の号。特集のタイトル通り、スピリットを表現したくて、自社で開催したイベントに来てくださった方にケアンズに対する想いを書いていただき、そのまま表紙にしました。父が逝ったのは、このイベントの当日でした。

 

随分悩んだ末、最期のひとときを一緒に過ごしたいという気持ちが勝り、16年間続けた情報誌発行の仕事をたたむことにしました。

大好きな仕事だったけど、命の重みに変えることはできません。読者さん、クライアントさん、スタッフさんのことを考えると、大きな決断でした。

止めた後、どうなるかまでは考えが及ばない。でも日本にしばらく帰ることだけ決めて、スタッフさんと個別にお話しました。次の就職先のことも考えながら、とにかく素直に。

「命が大切です」と理解を示してくれたことに感謝しかありません。

 

最終号の制作を進める中で、緊急入院の知らせを受けて全てを放り投げて帰国したとき、オフィスで涙が止まらず、何も手につかない私に変わって航空券を手配してくれたり、「後のことは任せてください」と言ってくれた彼等は、本当に恩人です。

 

クライアント(広告主)さんの熱い想いを読者さんを届けた、手書きメッセージ。私が不在の中、スタッフさんが力を合わせて創ってくれた誇らしい1冊です。

 

その後、全く予想していなかったのですが、雑誌を引き継ぎたいというお話が出ました。

いくら自分で生んで育てたからと言っても、止めてしまうのはエゴかもしれない、でも、単なるビジネスの譲渡と割り切れず、あまりにも内容が変わってしまったら悲しいという2つのエゴのぶつかり合い。

廃刊の噂を聞いた人たちからも「止めないでほしい」という声が届いており、現オーナーさんと話し合いを重ねた末、「ケアンズに必要なものだから」とリスペクトしてくださった意向を信じることに。(今は更に発展されています)

手塩にかけて育てた子をお嫁に出す気分だったけれど、行ってしまったらお任せすると決めて実務をこなしました。

 

東日本大震災の後のチャリティイベントの様子。数千人が日本への支援のために足を運んでくださいました。写真に映っているのは、募金用に作ったオリジナルTシャツ。

 

 

人生は、まったく予想できない出来事をもたらします。

仕事も同じ。特に変化が早い今のご時世、あまり先々の計画を立ててもその通りにいく方が少ないのではと思います。

自分で自分の人生の舵を取っているという尊厳と

大切にしたい価値観という羅針盤があれば、

赴くべき方向に導かれる

それを信じて、「今」を積み重ねるしかありません。

 

 

父を亡くした悲しみを抱えたまま日本から一時的に帰ってきた翌日に行われたチャリティイベントは、確か自分の誕生日だった。後ろに裸足の人が写っているのがケアンズっぽいですね(笑)

 

 

譲渡のやり取り、イベントのこと、父のお葬式、実家のこと、最終号の編集、契約上の問題、新スタッフさんとの引き継ぎ。。目まぐるし過ぎて、いつ何をしたか記憶が定かではありません。ケアンズと日本を何往復かしました。

ふっと一段落ついて、ご先祖様の地・奄美大島を訪ねようと思い立って乗った国内線の中で、いきなり息がうまくできなくなりました。

お医者さんに行ったら、パニック障害というものだそうで。

今思えば、過呼吸の症状は、外のものを自分の中に取り入れ(息を吸う)、自分の中のものを出す(息を吐く)のが上手くいかない訳で、取り巻く世界に自分を開くことへの恐れが起因していたのかもしれません。

 

酸素を上手く受け取れない恐怖はものすごく、ある時、あまりに苦しくてもうダメだ、と思ったとき、「心に光の柱を立てなさい!」という毅然とした声が聴こえました。

輝く柱をイメージすると次第に落ち着いてきて、私は確かに今、ここにいる。その感覚だけを頼りに日々が過ぎました。

 

ケアンズで待っていてくれた子ども達にも心配かけました。。

 

薬をお守り代わりに、何とか飛行機に乗れるかもしれない、とケアンズに帰ってきたのは半年以上も後のことです。

とても暑く、雨が多い雨期でした。

あれだけ忙しかった日々が嘘のようで、子ども達が学校にいる間、静かな家の中で、これから何をしようかなあとぼーっと考えました。

夢も理念もなく。ただ、自分の居場所が欲しかった。

あの時の蒸し暑さが蘇ります。

to be continued..

ショップ (パウチ) 裏話&商品, 天職・魂が喜ぶ 天分ビジネス

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