純粋であれ。
2018/08/31 幸せのヒント
生命の樹・小西温子先生に教えていただいて手に入れた、「52の美徳のエッセンス〜ヴァーチューズ・カード」。
タイトル通り、人間が持つ美徳が描かれていて、リアルで納得しやすく、優しさに満ちあふれてます。(最近は個人セッションの後にも使っています)
日々、仕事を始める前に「どんな心持ちで取り組んだらいいでしょうか」という気持ちで引くのですが、いつもピッタリなメッセージがやってきて、励まされたり、気づかされたり。
さっきコーヒーを飲みながら浮かんだ言葉をブログに書こうかな、どうしよう?と思って机の上にあったカードを引いてみたら、出たのがこの1枚。
自己主張!?
「私は自己主張します。私は自分自身の考えを自由に表現します。
私は自分で考え、正しいと感じることを行います。
私は自分自身のリーダーです。」
誰の役に立つかも分からない、(仕事につながる訳でもない)考えをわざわざブログに書くってどうなんだろう?と思った矢先のこのメッセージに「わかりました。ゴチャゴチャ考えず、ただ書こうと思ったから表現します」と答えました(笑)
思い浮かんだ言葉は、こんなことです。
純粋であれ。
純粋であるために、境界線を引くのだ。
この境界線は、ガラスのように透明で、他を拒否するためのものではない。
感謝の眼差しで外を観る。
信じる力と、強さを持って、必要なものを見極めよ。
あなたは、それだけを受け入れ、何かを生み出す愛のフィルターである。
子を宿した母親のように
共振する無限の光を受け入れたあなたは、
混沌の中から、美しいものを生み出す。
美しいものとは、響きとなって、他の命を生かすものである。
純粋であれ。
自分で書いておきながら、戒めのようなメッセージ。
家でテレビを見なくなって1年近く経ちますが、それでもインターネットなどから溢れんばかりの情報が入ってきます。心をザワザワさせるものは見なきゃいい。分かってはいても実行するのは強さが必要です。。
でも、死に向かって毎日進んでいるのだという事実に向き合ったとき思うのです。
情報に振り回されている時間が何ともったいないことか。自分の感覚を鈍らせることか。
あふれる情報自体に善も悪もない。ただ、それは自分が欲することなのかどうかを「見極める力」が、今いつにも増して、必要とされていると。
テレビも(当時)スマホもインターネットもなかったインドの田舎を旅したときの、人々の透き通る瞳が忘れられません。
外の情報に惑わされないとき、比較の対象がないとき、人は「足るを知る」存在でいられます。
明治維新、開国で、日本に外国の価値観や情報がどっと押し寄せ始めたときの危惧感を、夏目漱石はじめ、多くの知恵者が訴えました。そこで生まれた「和魂洋才」という考え方。
日本古来の精神を大切にしつつ、西洋からの優れた学問・知識・技術などを摂取・活用し、両者を調和・発展させていく
今は、それが個人レベルで起きているのだと思います。
自分以外の情報・価値観がどんどん中に入ってきて、本当の自分を見失う前に、心の純度を高めようと意識する必要があります。自分不在であってはなりません。
純度を鈍らせる情報を取り入れず、欲しないものにはNOと言う。結界を張るような毅然な態度。
そして、「わたしはわたし」としなやかで、朗らかで健全な自己主張。
この2つが自然と出来たとき、共鳴する人達と、自分が生まれてきた意味を実現できる。
そんな風に感じています。