アボリジニの人々と森の恵み
2019/11/03 アボリジニの聖地・教え
既にある、満たされているという気持ちから出発するものごとは、満たされた現実をもたらす。不安や恐れからスタートしたことが作る現実は、不安や恐れが付き纏う。
「始まりと終わりは同じ」。
生命の樹研究家、小西温子先生が教えてくれました。
久々にケアンズから北へ70kmほどの場所にあるモスマン渓谷のドリームタイムウォークに参加しました。
熱帯雨林を歩きながら、改めて感じたのは
全ては用意されていること。
森の恵み、生命の循環のシステムも完璧なまでに。
「何もない」というフィルターを通して見た時は何もなく、「恵みに満ちている」というフィルターを通して見た時に現れるのは、豊かな現実。
アボリジニの人々の暮らしが数万年も続いたのは、「既にある」への感謝と安らぎが1人1人に根付いていたからだと感じました。
当地のアボリジニの人々の食べ物は、獲物(動物)、木の実や果実などの植物。
なぜか(人間にとって)毒のあるものが多いのです。それを、川に浸したり、焼いたり、手間暇と時間をかけて口にした。
木の実も硬いものが多く、簡単に食すことはできません。凹みのある石にはめて、尖った石で割って砕いたり。
果実においては、そのままでは酸っぱすぎたり、苦くて食べられないものが多いです。
なんと不便で生きづらい場所だろうと言う風にも見えます。
現代人は、自分たちが食べやすいように品種改良します。
市販で売られているフルーツ、お米さえ改良を重ねたもので、原種ではありません。
味の面だけでなく、大量に作るために遺伝子の組み替えまでが行われ、市場には、添加物が含まれた食べ物が溢れています。
それらの食べ物は、食べやすくて美味しくて、手に入りやすくなった代わりに、本来備わっていた栄養やエネルギーが失われてしまいました。
お店で売られている植物には、育ちやすい環境、水やりのことなどの注意書きがありますが、自生している植物は、自分に合った土壌で完璧にその命を発揮しています。
現代の栄養素の知識からすれば偏った食生活だったにも関わらず、アボリジニの人々の死因は老衰か怪我しかなかったと言われます(白人の入植と共に病気が広がった)。
それは、植物に宿る「生かそうとする愛(パワー)」と人間が共鳴していたからだと思うのです。
ダイレクトに受け取り、感謝と協働というプロセスを経た大自然の恵みだからこそ、少量でも身体の滋養となったのではないでしょうか。
ありのままを生かした時、輝く。それは、人だけでなく、あらゆる命に通ずることなのですね。
毒のあるものを変えようとするのでなく、受け入れる。
自分の利便にたぐい寄せるのでなく、謙虚な心で歩み寄る。
真の恵みは、祈りをはらんだ自らの歩みによってのみ、得られるものなのかもしれません。
息がきれ、辛く大変な道のりの後にたどり着く山頂からの景色が、ヘリコプターで降り立った時に見えるのそれと違うように。
本当に大切なことは、簡単に届かない場所にある。
歌でも歌いながら、女性たちが下ごしらえする姿が想像できます。
「恵みに満ちている」と信じる心の豊かさは、手間隙をかけて口にすることが出来るようになった食べ物を「分け合う」在り方につながった。
分け合う精神は、子ども、孫、その先と、今周りにいる人でなく、遠くの子孫まで。
必要以上に採らない、捕らない。独り占め、キープする。。そんな発想は彼らにありませんでした。保存技術が故かもしれませんが、今も未来も等しく見据えていたように思います。
「いつなくなるか分からない」という欠乏感からスタートしたのなら、この発想にはならなかったでしょう。
大地は必要なものを与えてくれると信じることができるのは、不安でなく、生かされていると感じる安らぎがベースだから。助け合う仲間がいたから。
アボリジニの人々の長い長い歴史の中には、領土拡大のための争いの記述がありません。自分が属する場所に誇りを持ち、その大地(カントリー)を守るという使命感がありました。
「既にある」を忘れ、もっともっとを追いかけた、便利の先に、時間短縮の先に、大量生産の先に、競争の先に、何があるのか。
今、その答えが出始めています。
これからどんな世界に生きたいのか、私たちは選ぶことができます。
部族の中で生存することが全てだった時代とは違い、世界中の人と繋がることができ、何日も航海せずとも他国に飛んで行けます。
太古から続く智慧を自分のフィルターを通して取り入れ、現代のテクノロジーを使って望む世界を創ることができるのです。
命を生かしてきた「大いなる愛」の力に包まれ、それを謙虚に受け取ってきたアボリジニの人々の息遣いが残る聖地を訪れる度に、イマジネーションが広がってゆきます。