現実は、想いが形になったものである。常に正しく想うことだ。

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人に語る言葉は、鏡のように自分を映し、自分を磨く。全て自分に返ってくる。現実は、想いが形になったものである。常に正しく想うことだ。

アボリジニのシャーマンCJとのインタビューより

 

インタビューさせていただいたのは、2010年。前回のブログ「自分らしく生きるってどういうこと?」は、なぜか急に「CJのことを書こう」と思いついて、色んな情景を思い出しながら書きました。

 

6年も前のことなのに、何故そう思ったのか不思議なのですが。。

もっと不思議なことが起こりました。ブログを書いた翌日、CJから電話があったんです。ほんと何年ぶりだろう??「昨日、ちょうど思い出してたんだよ。ビックリした!」と私は少し興奮でしたが、彼の反応は「へー」でした(笑)

 

 

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寡黙だけどいきなり深い言葉を言ったり、ジョークを飛ばしたり。(自分は別に聖人じゃなくて俗っぽい、と言ってた)数日かけて書き留めたメモから3ページの記事を書きました。

 

 

「やっと本を書き始めた」と言うCJ。そういえば6年前、自分が見ている世界について絵に描くか、文にしたいって言っていた。彼の夢は、極彩色で光輝くそれはそれは美しい世界なのだそうです。寝ている間に、色々な場所を訪ね、メッセージを受け取るのだとか。もっとも、起きていても、魂だけ抜けて他国を巡ることもあるそうで、「ほんとかよ」って感じで聞いておりましたが。。「魂には国境も時間も制限もない」と普通に言っていたのを思い出します。(近々会うことになったので、回顧シリーズと共に新しい話も書けそうです。)

 

 

さて、冒頭の「現実は、想いが形になったものである。」ということについて。

これ、6年前の私には意味がわかりませんでした。仕事も子育てもただただ忙しく、脇目もふらず突っ走っていた頃で、もちろん想い通りにならないことも多々あり、「思ったことが現実になるなら、苦労しないでしょ」と。

 

 

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交流のあるアメリカンインディアンの長老からもらったという袋と羽根。

 

 

そのたった1年後、私の生活と精神状態は一変してしまいます。

父の余命宣告を受け、残りの時間を日本で一緒に過ごそうと 16年間やっていた情報誌発行を止めることに決め、東日本大震災が日本を襲い、思うより早く父は逝き、前職がらみのトラブルが起き、何度も訪れる過呼吸の恐怖の中で生きることになったのです。

 

父のことや震災は、私の想いが生み出したものではありません。が、この現実を、どんな想いで捉えてどう反応したかが、次の現実を作っていった。と今はわかります。

 

 

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私は、失うのが、そして、箱の中から出られなくなるのが恐かった。

 

相反することに対する恐れ。自ら閉じた心が閉塞感を生み、入れる(新しい状況を受け入れる)のも出す(今まで持っていたものを手放す)のも恐い。ついに、自分が吸った空気が肺にうまく入らなくなってしまいました。閉ざされた空間が恐いから、電車はもちろん飛行機も乗れない。飛行機に乗ってケアンズに帰ってきて、新しい現実に向き合うのが恐い、という気持ちも体に影響を及ぼしたかもしれません。

 

 

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「我々が葛藤する世俗的な出来事は、

ただの表面的な状況に過ぎない。

自分の中心に還ったとき、

何事にも傷付けられることはない」

 

とCJは言っていました。

 

渦中にいると、状況に飲まれてしまって大変ですけど。。

息を吸っても吸っても苦しくて、死ぬんじゃないかという恐怖を何度も味わったとき、「心に光の柱を立てなさい」という凛とした声が聞こえ(た気がし)て、必死でイメージしていたら何となく落ち着きました。「自分の中心を思い出しなさい」と同じことですね。

 

 

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ディジュリドゥじゃなくて ! ギターを演奏するCJ。色んなこだわりがない。

 

 

過呼吸という現実は、自分の恐怖心が作り出したものでした。これは極端な例ですけれど、私たちの日常は自分の思い込みや感情が反映された現実でできています

 

不安という現実はないのに、不安というイメージを作り出す。

「お金がなくなったらどうしよう」って、まだあるうちに、今はない現実を憂いて、お金がない現実を招いたり。

「私がしっかり頑張らないとこの部署はまわらない」と、勝手な義務感で仕事をして、残業が減らなかったり。

「ほんとはイヤだけど、正直に言ったら彼に嫌われるかも」と我慢して、「何か重いヤツ」と本当に嫌われてしまったり。

 

逆に、「私は大丈夫」という想いが、意識しないほど基底にある人には、大丈夫なできごとが起こる。

 

というか、同じ状況にあっても「やっぱり私は不幸」と思う人もいれば「ま、こんなこともあるか」と感じる人もいるわけで、全て自分次第ですね。

 

自分が描くドラマ通りのシナリオが作られる、それが人生。

 

 

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このブログのタイトルにした、正しく想うの「正しく」は、正誤や善悪のことではなくて、「自分の中心に基づく」ことだと私は解釈しています。

 

本当の自分は、不安や恨みや罪悪感などなく生き生きしてた。赤ちゃんの時、そうだったように。そんな素の自分から湧き出る想いを大切にしようということ。

生きる中で次第に背負ってしまった思い込みを削ぎ落して、シンプルで純粋な、自分の中心へ還ってゆこうと努めること。

 

感情がなかったらロボットみたいになっちゃう?いえ、

感情は、気づきを得る(本来の自分に還る)ためのセンサー。嬉しい、悲しい、恐い、もやもやする。。色んな感情があるから、自分の要らない思い込みに気づくんです。感情を味わって、解放したら、自分の中心にある想いを発動できる。

 

 

「人に語る言葉は、鏡のように自分を映し、自分を磨く。全て自分に返ってくる。」とCJは言いました。

思考はいつか言葉になる。言葉はいつか行動になる。行動はいつか習慣になる。習慣はいつか性格になる。性格はいつか運命になる。

。。マザーテレサも同じことを言っていますよね。

 

想いが言葉になり、やがて運命(現実)を作る。

自分の中心から言葉を発する人間でありたいと思います。

 

 

 

 

アボリジニの聖地・教え, 幸せのヒント

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